
先日、認知症の方とごく自然に触れ合ったり、認知症のケアをしている介護職員と様々な認知症ケアの体験を共有したりしながら、より良い認知症ケアを考えている研究者の話を聞く機会がありました。
最近は認知症の当事者の方に、自分のいまの状態や感じていること、体験などを自分の言葉で語る方が増えてきました。その研究者がおっしゃるには、当事者の方が一番うれしいと話すのは、いい「ケア」やすばらしい「介護」を受けることではなく、同じ目線で同じ時間、同じ体験を「共有」してもらえることなのだそうです。
例えば、ある若年性認知症の方は写真が趣味で、時には何時間もシャッターチャンスを待つことがあるそうです。その方は、お付き合いでシャッターチャンスを待ってくれるより、あれこれと世話をしてくれるより、楽しんでシャッターチャンスを一緒に待ってくれる同じ趣味の友人がいてくれることが何よりうれしいと話していらっしゃったそうです。
その研究者は、認知症の方と接する過程で、認知症だからといって構えずに普通に接すればいいんだなと考えるようになった、と話していました。言葉が出ないような深い認知症の方にも、その研究者は目を見て、手を握り、「私の手、冷たいですよね。ごめんなさい。あなたの手は温かいですね」とごく自然に話しかけるそうです。
10分、15分、そうして普通に話しかけているうちに、認知症の方から言葉は出なくても、次第に表情が緩み、目に力が出てくるそうです。同じ人間として心を通わせたいという研究者の方の気持ちは、認知症の方にきちんと通じているのだと感じました。
かつては問題行動と言われていた認知症の方の様々な行動の背後には、その方なりの意味がある、ということはずいぶん知られるようになりました。しかし、「普通の人として普通に接すればよい」というところまでは、なかなか理解が進んでいないように思います。
研究者の方の話を聞きながら、認知症の方の問題と言われた行動の背後には、「普通」に扱われないことを悲しむ気持ち、腹を立てる怒りの感情があるのかもしれないと考えたりしました。




