義父は、認知症を患い、現在グループホームで生活しています。
先日、一緒に近所を散歩した時、赤い小さな花をつけた草をたくさん見つけました。
義父は、庭の手入れや家庭菜園を趣味にしていたので、草木についてよく知っています。
「この草は雑草ですかね?」と尋ねたところ、「雑草という名前の草はないんだよ」との答えが返ってきました。…確かに、雑草にもそれぞれ、きちんと名前がついています。
私たちは、物事をひとくくりにして考える傾向があるのではないか、とふと思いました。
「認知症」の方は、物忘れが顕著で、被害妄想になりやすい…よく言われることです。
確かに、そのような傾向はありますが、それぞれの方で症状も違います。義父は、直前に昼食を摂ったことを忘れてしまうことは度々ですが、一緒に行った神社の名前を1週間後でも覚えていることがありました。(ちなみに私は、その時、神社の名前をすっかり忘れていました…)
義父は、定年まで会社員として勤め上げ、退職後は、自分で野菜を作ったり、歴史サークルなどに参加することを楽しみにしていました。グループホームへの入所は、義父にとって、思ってもみなかった老後の生活だったでしょう。実際、最初の頃は、帰宅願望が強く、涙を流したり、憤慨することが多く、施設からも頻繁に連絡がありました。職員の方々の温かい見守りや声かけにより、だんだんと施設の生活にも慣れ、3年近く経った今では、穏やかな日々を送っています。
できないことが少しずつ増え、一人で身の回りのことをするのは難しくなっていますが、感受性は豊かです。心と葛藤しながらも、自分の置かれている状況を受け入れようとしているのかもしれません。「雑草」に対する発言は、それでも「私はここにいるよ」という義父の心のメッセージだったのではないか、そんな気がしました。
散歩の帰り道「おっ、カリンがなっている」の声に、ふと見上げると、街路樹にたくさんのカリンが… 日頃、せかせかと歩き、上を向くこともなく、義父に言われなければ、それがカリンの樹であることも知らずに、通り過ぎていたことでしょう。
「カリンは、はちみつ漬けにすると喉にいいんだよ」そんな話を聞きながら、ゆっくりとした時間が流れて行きました。
次回会った時には、散歩のことは忘れているかもしれません。それでも、私にとっては、大切なことに気づかされた貴重な時間でした。