東京都介護支援専門員研究協議会は、6月30日、東京・中野区で平成24年度総会特別講演会・第4回研究大会を開催した。
特別講演会は、女優の小山明子さんによる「二人の『絆』で乗り越えた介護の日々」。講演は一般にも公開され、小山さんが語る夫で映画監督の大島渚氏の介護体験に聞き入った。
1950年代後半に「日本のヌーベルバーグ」の旗手として台頭し、『愛のコリーダ』などの名作で、世界的な映画監督として知られる大島渚氏。テレビの討論番組の論客としても引っ張りだこだった大島氏が、脳出血で倒れたのは1996年のこと。イギリスはロンドンでの出来事だった。
「知らせを受け、すぐに現地に駆け付けたかったのですが、テレビや舞台の仕事があり、周囲にも止められて、行くことができなかった。そのことが、長く私を苦しめることになりました」と小山さん。
大島氏がロンドンの病院から日本の病院に転院した時も、小山さんは看病もままならない状態だったそうで、「マスコミ対策を考えた周囲の配慮でしたが、『夫に何もしてあげられない』『私は役に立っていない』と思うようになり、うつ状態に。病院に近い息子のマンションに滞在している時、『ここから飛び降りようか』と思ったこともありました」。
大島氏が退院し、自宅での療養生活がスタート。家政婦やヘルパーのサポートがあるとはいえ、食事のカロリー計算など慣れない作業は小山さんの生活を一変させた。何より、夫がいちばん苦しい時にそばにいられなかったという負い目が原因のうつ状態が続き、介護生活のはじまりは、小山さんにとってとても苦しいものだったという。
「ある日、リハビリに付き添っていた時、横にいた女性に『ねえ、あそこにいるの大島渚よ』と声をかけられたんです。『私は、その妻なのに…』がく然としましたが、家に帰って鏡を見たら、そこには化粧もせずに白髪頭、服もよれよれの老婆が…!自分のことにまったく構う余裕がなくなっていたんですね。『これではいけない、夫を支えなくてはならない自分が先にだめになってしまう』と目が覚めました」
美容院で髪を染め、化粧をし、装いにも気をつけるように。プールやヨガ教室に定期的に通うなど、自分のための時間も大切にするようになったという。
大島氏が倒れた時、小山さんは61歳。女優としてますます深みを増す年齢で、大島氏が社会復帰をかなえたら、自身の仕事を再開するプランもあった。熱心なリハビリが奏功し、1999年に大島氏は『御法度』の監督で復帰。映画は大きな評判となり、大島氏の肺炎での入院などアクシデントはありながらも、復活への手ごたえを感じていた2001年、大島氏が十二腸潰瘍穿孔と診断され、緊急手術。長時間の手術は大島氏の体力を奪い、医師は「リハビリしても自分で歩くのは難しい」と宣告。さらに家政婦の女性も病気で入院するという事態に。「この時肚が決まったんです、私がやらなきゃ誰がやるって」。女優としての復帰をあきらめ、夫の介護に生きる決心をしたのだった。
介護の日々をつづったエッセイも好評だ
在宅での療養を選択し、ケアマネとのつきあいも始まった。介護サービスを活用し、地域の人の支えも感じながらの療養生活は10年を超えた。大島氏の体調がいい時は、車いすでできるだけ外出もしているそうで、どしゃぶりの雨の中、車の中から見た満開の桜の美しさ、新幹線で京都に行き、大学の同窓会に出席したこと、懐かしい同級生に酒を注がれた大島氏の笑顔…どれもが、大島氏と小山さん夫婦の貴重な日々の1ページだ。
小山さんの介護生活を支えてきたのは、何よりも大島氏への変わらぬ愛と夫婦の絆。そして、介護の日々に手にとったたくさんの本から得た言葉だという。そのひとつが「今を生きる」という言葉。女優として活躍した過去にとらわれず、将来の不安に惑わされず、「今この時を精一杯生きること」。介護の経験を通して、小山さんが至った心境を映す言葉は、大きな勇気となって会場にも手渡された。
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