東京都医学研究所は、ショウジョウバエを用いて空腹状態にすると記憶力があがることを明らかにした。
アルツハイマー病や老化による記憶力の低下や先天的な記憶障害を改善することは、クオリティ・オブ・ライフ(Quality of Life:QOL)の向上に必須だといわれている。記憶の研究は世界中で盛んに行われているが、記憶障害を改善する方法はいまだ確立されていないことは、認知症の多くが不治の病であることからも明らかだ。
同研究所は今回の研究で、分子メカニズムを分析した結果、空腹で血糖値をコントロールするインスリンが低下すると、インスリンにより抑制されていたたんぱく質が活性化され、記憶力があがることが分かった。このたんぱく質は、ヒト体内にも存在することが知られており、ヒトでも空腹時に似た仕組みで記憶力があがる可能性がある。
空腹状態を維持して記憶障害を改善することは、現実的には困難だが、今回の研究をもとに、空腹時における脳内の記憶保持の仕組みを再現するような薬を考案すれば、将来的に、記憶力の向上あるいは記憶障害を改善できる可能性があると期待される。
■研究の背景と経緯:
動物は、経験した事柄を記憶情報として保存することができる。記憶を長期的に保存するため、脳の神経細胞ではCREBというたんぱく質が新たな遺伝子を読み出す必要がある。このような長期記憶のメカニズムは、ショウジョウバエから哺乳類まで共通しており、私たちの生活は、この長期記憶に支えられている。
今回研究グループが行った研究は以下のとおり。
ハエに1つの匂いと電気ショックを同時に与えると、その匂いを電気ショックと関連付けて学習し、嫌いになる(嫌悪学習)が、嫌悪の記憶が長期記憶として保存されるためには、1回だけの学習では不十分で、15分間隔で何度も復習させることが必要。
一方、ハエに1つの匂いと砂糖水を同時に与えると、ハエはその匂いが好きになり(報酬記憶)、不思議なことに、報酬記憶は1回の学習でも長期記憶になることが分かっている。そこで研究グループが着目したのは、報酬学習前に、効率的に砂糖水を飲ませるために、ハエを空腹状態にした。そして、この空腹状態こそが1回だけの学習でも長期記憶が作らせる要因なのではないかと考えた。
満腹時と空腹時の長期記憶の作られ方
■研究の内容:
空腹状態が長期記憶を作るために重要なら、空腹状態にしたハエに嫌悪学習をさせれば、1回の学習でも長期記憶ができるはず。研究グループは、ハエを9時間から16時間絶食させたのちに1回だけ嫌悪学習させ、1日後に記憶を確かめてみると、見事に長期記憶として保存されていることを発見した。また、空腹時であっても、CREBたんぱく質を阻害すると長期記憶は作られないことを確認した。これまでの研究で、CREBが機能するためには、CREBを活性化させるCBPとCRTCいう2つたんぱく質が重要であることが分かっている。
そこで、CBPとCRTCの機能を阻害する実験を行った結果、満腹時の複数回の学習による長期記憶にはCBPが重要である一方、空腹時の1回の学習で作られる長期記憶にはCRTCが重要であることを突き止めた。また、これまでの研究で、代謝組織において、CRTCは活性化すると細胞核に移行することが知られており、今回の記憶中枢の神経細胞においても、空腹により細胞核への移行が確認できたことから、記憶中枢神経のCRTCが活性化されることが分かった。
空腹時には血液中の糖濃度(血糖値)が低下し、その結果、インスリンの分泌が低下する。これまでの代謝組織における研究で、CRTCはこのインスリン低下により活性化することが分かっている。そこで、空腹時のインスリン低下が長期記憶を作らせるのか検討するため、研究グループは、遺伝的にインスリン活性が低下している変異体を解析した。すると、このハエは、空腹にしなくてもCRTCが活性化しており、満腹状態でも1回の学習で長期記憶が作られることが分かった。以上のことから、1回の学習で長期記憶が作られる機序として、空腹状態のインスリン低下によりCRTCが核内移行し、CREBを活性化するという分子メカニズムを明らかにした。
■今後の展開:
本研究から、脳内の神経細胞でCRTCを活性化させれば記憶力があがることが分かった。これまで長期記憶を作るために、嫌悪学習では複数回の学習を必要とするが、報酬学習では1回のみの学習で十分である理由として、報酬学習前の絶食の影響を考慮されてこなかったため、今回の成果は、研究者の常識を覆す発見といえる。
また、古くから一般にも、「勉強は食前に行うと良い」などと空腹状態と記憶との関連についていわれてきたが、科学的な実証がなされ、分子メカニズムが示唆されたのは、今回が世界で初めて。今後、メカニズムの詳細を明らかにするとともに、マウスなどの高等生物での解析を進め、最終的にはヒトで同様の仕組みが働いているかなどを確かめる必要があるが、この成果が、古くからの謂れについて生物学的な検証が始まる糸口になるかもしれない。
そして将来的には、CRTCの活性を制御する薬剤を開発することによって、記憶力の改善が実現する可能性があり、認知症を含む記憶の研究に一石を投じるものとなった。
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