人の「死」ということを、考えさせられる日々 私は特養や有料老人ホームでの介護職から、現在ケアマネに至っております。
アルツハイマーの後期に入り、四肢は重度の拘縮を起こし、経口摂取はできず、寝返りもできず、声をかけても、体をゆすってもなんの反応もなく、ただ介護者にされるがままの生活をされる方もおられますよね。
経口摂取できなくなった時点で鼻注もしくは胃ろうの選択が必要なとき、本人に意思決定は事実上不可能。回復する見通しのない経管栄養という医療行為は「延命処置」なのでしょうか?
若い頃、特養での夜勤でくたくたになって業務についていたときから「人生の終わり」はこれでいいのか?」という思いが頭に浮かびました。「本人の苦痛の緩和、残された家族の意思ならそれでいいのだ。」
でも、「この人の意思確認もできない、喜怒哀楽の感情が見えない人は果たして『人間』なのか?」
自問自答の日々でした。いまだ答えは見つかりません。胃ろうになってから、家族の面会で「きれいな顔色になってきたし、よかったね。」と言ってたことがあり、家族にとっては満足だったのならそれでいいのかも・・・とも思います。
「利用者が利用者らしい生活ができるように介護する。」どこの事業所さんのパンフレットにでも書かれてそうな言葉ですが、
その人がその人らしくなくなったら?そのときベターな介護とはなんなんだろう?きっとベストは見つからないからあえてベター。
アルツハイマーの後期。それは魂が死んでる状態なのか?それならこの「身体」はなに?抜け殻?痛みの表情を見せるときがあるからやっぱり生きている?たくさんの自問自答を繰り返し、繰り返しされど答えは霧の中。
そんな方と接したことのある方、またはそんな方のご家族の方はどう感じておられるのでしょうか?経管栄養をやめて安楽死にすればいいとかそんな短絡的なことを考えているわけではないんです。
「この人が生きているのか死んでいるのか」という、そんな漠然とした感情です。きっと医療技術がここまで発展してなかったら、こんな悩みもなく、老衰で亡くなっていたのでしょうが、どんな思いでみなさんは接しているのでしょうか?
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